【パラグアイ】イグアス日本人居住地で日本人移民の歴史を学ぶ!(2019年11月12日~13日)

オラー!

今回はパラグアイのイグアス日本人居住地の移民資料館で移民の歴史を学びました!




11月12日はブログをバージョンアップしていました。

と言うのも、使っていたテーマ(ブログのおおよその形を作ってるテンプレート)が古過ぎていろんな事に対応できなくなってきたり、変なエラーやバグが増えてきたから。前々から変な動作をしていたので気になってはいたんですが、今日思い切って新しくしてしまいました。

この日は一日中ブログにつきっきりだったので、外出は昼食のみ。昨日と同じファストフード店に入りました。

昨日はほぼ満席でしたが、今は時間が14時半と中途半端なので誰もいません。

ミラネーザ・ティラピア。25,000グアラニー(≒421円)。

ミラネーザ・ティラピア

でっかい魚のフライが2枚も!

店員さんが無料で白ご飯を付けてくれました。

白ご飯は単品で別料金のはずなので、たぶん昼の部のご飯が余ってたんだと思います。ありがてぇ(。-人-)

魚のフライのレベルが高い!!!

身が厚くてふわふわだし、外側の衣は薄くてサクッとしています。醤油で頂きました。日本の定食屋で食事してるみたい(*´ω`)

 

11月13日、今日は宿のオーナー園田さんに移民資料館の案内をお願いしました。

園田さん自身がこのイグアス日本人居住地の最初の頃に移住してきた方。移民資料館は常時閉まっていて、園田さんにお願いすると開けてもらえます。

中には日本人移民が持ち込んだ農機具や生活用品が置かれています。

だいたいどれも1950年代の物だそうです。

パラグアイの日本人移民の歴史

パラグアイにはこのイグアス以外にも何ヵ所か移住地があり、パラグアイの南東部に固まっています。

パラグアイの移民は、一番最初は戦前の1936年。第二次世界大戦中はパラグアイが連合国側に付いて日本が敵国になってしまったので、戦前の移民はとても苦労したそうな。

戦後、日本とパラグアイで移民協定が結ばれ、1954年から1961年の間にパラグアイの各地に移住地が作られました。

パラグアイで成功した大豆生産

1961年に開かれたイグアス居住地は、もともとほぼジャングルで開拓が大変だったそうですが、土地が肥えているのが幸いして、農業が比較的うまくいったそうです。ボクがイグアス湖に行く途中で見た広い畑は、大豆畑でした。(11日に撮った写真)

大豆栽培は移住した日本人が自分達が食べる用として持ち込んで始めた物ですが、今ではパラグアイが世界6位の大豆生産量を誇るまでになっています。

なお、同時期にドミニカ共和国に渡った日本人移民は、土地が痩せすぎてなんともならず集団帰国するなどしているので、大変だったとは言えパラグアイに渡った移民は土地に恵まれていたと言えるようです。

日本人はあと7万人パラグアイに移住できる!!

戦後日本とパラグアイで結ばれた移民協定では、パラグアイが日本人移民を8万人受け入れる、と言う内容だったそうですが、パラグアイの日系移民は一番多い時で1万3千人現在は8千人しかパラグアイにいません。この協定はまだ生きているので、今でもパラグアイはあと7万人くらい日本から移民を受け入れる枠があるそうです。

なるほど、日本人は書類さえ揃えればほぼ確実にパラグアイの永住権を取れる、と言うのはそういうカラクリがあるわけですね。

すんごい過酷そうな道中

こちらは日本からパラグアイに至る航路の図。

東回り航路と西回り航路があり、日本の船だと太平洋を渡ってカリブ海を通り、南米東部を経由しながらアルゼンチンの港を目指す東回り航路。オランダ船に乗る場合もあったらしく、その場合は東南アジア、アフリカ東部・南部を経由して南米に至る西回り航路。

・・・オランダ船が寄る港は、香港以外全部行った事があるボク。さすが黄金航路マニアのボク。

船は、東回りの場合は約1ヵ月半、西回りの場合は約2ヵ月かかったそうです。しかも客船ではなく、貨物船の貨物スペースに800人詰め込まれた状況で。それはエグイ。ボクは1泊や2泊でも船酔いや陸酔いに悩まされるのに、2ヵ月もかかるなんて無理すぎる

農業移民、工業移民、花嫁移民

移民には、農業をするために行く農業移民と、工業に従事するために行く工業移民がいたようです。園田さんは農業移民として来た方。ブラジルは80年代以降は工業移民しか受け入れてないらしい。

そして、“花嫁移民”なんて制度もあったらしい。既に移住地に渡っている移民の花嫁を日本で募集し、その移住者と結婚するために遠路はるばるやって来る女性移民の事。もちろん花嫁移民も2ヵ月船に揺られての移動。ガッツありすぎやん

でも実際は、「会ってみたら思ってたのと違った」と言ってトラブルも多かったそうです。女性が日本で見せられた写真は移住前の物だったらしいので、当たり前っちゃ当たり前です。

 

移住初期の不安

下2段が開拓中の写真。

 

開拓当初、ジャングルを切り開くのに使っていたノコギリ。

この辺の木はしつこいので根っこを残すとまた生えてくるし、土の中に根っこが残っていると、牛に引かせる農耕具が引っかかって牛が体を痛めたりするので、完璧に取らないといけない。大木だとその1本を取り除くのに3日かかったりと、全然進まなかったそうです。

やっぱりこの頃が一番大変で、開拓しても畑が出来るか分からない、畑が出来ても作物が育つか分からない、作物が育ってもそれで十分な収入が得られるか分からない、と不安だらけだったようです。

なんというか、年金が減るだのもらえないだのなんて不安とはレベルが違い過ぎますね。数日前のアサードパーティで移民一世の方が「日本人は日本政府をアテにし過ぎ。なんでも自分でやらにゃ」と言ってたのも納得です。だって自分でなんとかしてきた人達なんだから。

 

そんな感じで、1時間ちょっとお話をして頂きました。南米って日系移民がめちゃくちゃ多い(ブラジルに2百万人、ペルーやアルゼンチンにも数万人ずつ)のに、日本で日系移民の話って全然出て来てないような・・・。中学校の日本史で出て来ても良いくらいだと思うんですが。

 

今まで気づきませんでしたが、宿の入り口に貼られていたステッカー。

50年でジャングルを村にしたんですねぇ。

ペンション園田のわんこたち。

大型犬が3匹。もこもこしててかわいい。

 

明日はもう居住地を出てしまうので、午後に少し散歩。

広いよなぁ。空き地なんだか庭なんだか。お隣さんどこよ?ってレベル。

朝、移民資料館に行く時に生協が開いているのが見えたのでまた生協に来てみましたが、やっぱり閉まっていました

完全に閉店じゃなくて午前中だけ営業してる、とかなのかな。ちゃんと営業時間書いてほしい・・・。

警察署

・・・人の気配がしない。ちゃんといるのかな。

図書館と書いてあるけど、普通の民家にしか見えない。

 

グラウンドもあります。

必要な施設はだいたいそろってる感じ。ほんとよく50年でここまで。

歩いていると散髪屋があったので、ついでに散髪。店員さんは完全にパラグアイの人っぽかったですが、切ってる途中で「ムーチョ(いっぱい)・カミノケw」と笑われました。カミノケ多くてすみませんw

世界各地で散髪したボクですが、残りの期間的にこれが今回の旅行で最後の散髪になりそうです。

 

ドミトリーに泊まっているもう一人の客(ボクが来た初日からこの人しかいない)がブラジル料理の豆の煮込みみたいなのを作っていて、分けてくれました。

ブラジル料理は知らないけど、これ東アフリカでよく食べた気が・・・あっ、資料館にあったオランダ船の航路・・・。東アフリカから南米への航路が中世からあったんだ。

カリブ海の博物館などで見た奴隷船の航路は全て西アフリカから引かれていて、「東アフリカから出た奴隷貿易船はどこに行ったんだ?」と思っていましたが、東アフリカの人は主に南米の東側に連れて来られたんですね。ようやく繋がりました。食べて歩いて学ぶ世界史

 

ようやくここに来た目的が果たせたので、明日はイグアス日本人居住地を出てアルゼンチンのプエルトイグアスに移動します。では今回はこれにて(=’ω’)ノ

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